平成26年9月号
(第197版)
〜 大家族? 〜
 
サンヒルきよたけ  野邊

   さあ、しばらくは回ってこないだろうと思っていたエコーリレー!!何を書こうと悩み、原稿〆に間に合わずギリギリまで待ってもらい、思いついた内容がこれでした。
   私は、迫田病院での病棟勤務8〜9年間働き、それからサンヒルきよたけの方へ移動してきました。最初は、病院での仕事とは全くかけ離れた高齢者の介護という仕事=私の中では体力(力仕事)やっていけるかどうか心配だったのですが、周りのスタッフに支えられなんとか、かんとか4年?くらいはたったでしょうか。(笑)さて、前置きはこの辺までにして本題に入りたいと思います。

   私には、4男2女の6人の子供がいます。上から長男(高校1年生)あまりお金のかからない県立の高校に合格してくれ、今年の春から私たち親元を離れ私の実家である川南から高校に通うという自立しているお兄ちゃん。結構頼りにしていた存在がいなくなってしまいました。
   次に次男(中学3年生)またもや高校受験生を持つ親です。ちょっと障害を持っているのでどこの高校に行こうか迷っている次第であります。今は、お兄ちゃんがいない分上に立って弟の面倒を見て、家の事もよくしてくれます。
   次に長女(小学5年生)この子も結構しっかりしていて、良くお手伝いをしてくれます。ちょっとうるさく口は達者です。

   次は次女(小学2年生)この子はおてんばすぎて、怪我の絶えない子です。体は小さいのですがやる事は大きいです。
   長女・次女に関しては迫田病院勤務時に出産しました。次、三男・四男に関してはサンヒルきよたけに異動になってから生ませてもらいました。その三男も、もう10月で3歳になりますが、最近自己主張が出てきて大変です。しかし、将来はよしもと?というぐらいお笑い系の道を通っていて、いつも笑わせてくれています。

   最後に、昨年8月に生まれた四男。先月で1歳ながらもよく分かっているんですね。一番下という事もあってよく周りを見ていて、怒られているお兄ちゃん、お姉ちゃんを見て学習しているんだなぁと感心するほどです。
   こんな大家族?で仕事をさせてもらって、夜勤までできるのも主人の協力があってこそ感謝の気持ちでいっぱいです。子供達も子供達なりに親の仕事を理解し、よく家の事もしてくれているので「ありがとう、助かる」の気持ちでいっぱいです。主人も働いているにも関わらず何故か私よりも家事・仕事をいっぱいしてくれているような・・・。(もしかして言いたくても言えない?!) 旦那様、いつもいつもありがとう。

 
〜 みんなの支えに感謝 〜
 
迫田病院 木村
   私は、中材・手術室の木村佐織です。
   看護学校卒業後、夢の花の都へ。東京医科大学の手術室で3年弱の経験を積んだあと宮崎へ帰り結婚までの2年、娘が小学校に入るまでの6年、現在までの13年。実に20年以上も迫田病院でお世話になっています。
   元気なだけが取り柄の私も3年前の健診で思いもよらぬ病気が見つかり、取ってみないと良性か悪性か分からない縦隔腫瘍だと告げられました。その時の絶望感は、相当なもので↓
まさか自分の身にそのような事が起きるとは・・・。「私が何をしたの!」と怒りにも似た感情が湧いて正直、死をも覚悟しました。(泣) 

発見時には、拳大であったため医大の先生と相談し開胸手術・・・。外見上何の変化もない私に家族は、これから始まる闘病生活など想像もつかなかった様で医師の病状・手術の説明にただただ言葉を失っていました。
   手術当日「ならね!」と歩いて手術室へ入室。何も覚えていないまま「終わったよ」と起こされ「またまたァ〜」と時計を見ると8時間近く過ぎており身体中に管が入った姿を見て術後を自覚しました。

 

   主人は、入院中毎日来て洗濯物を持ち帰り補充。身体を拭いてくれたり、髪を洗ってくれたり、欲しいものを調達してくれ、夕飯も一人で淋しいだろうと病院に持ち込み3人でよく食事もしました。娘は、高3の遊びたい盛りの夏休みをほぼ私の病室で過ごしてくれ(帰る娘を何度泣きながら見送ったことか(笑))とても感謝という言葉では足りません。家族の絆が深まった45日間は互いを思いやる事の大切さを神様が再認識させてくれた時間でした。
   幸い良性だった為、術後抗がん剤治療もなく退院することが出来、今こうして職場復帰することもできました。温かく見守ってくれた家族や職場のスタッフ、友人の支えがあってこそだと思っています。
   これから、私にできる最大限の恩返しをするべく頑張っていこうと思っていますので今後ともよろしくお願いします。